説得力。

 結局、何を言うかではなく、誰が言うかが一番重要なのだ。

 道端のホームレスの言うことを信じる人がいるだろうか。社会的地位というものは、少なからず現在を生きる上でかなり重要な位置を占めてくる。その意味で、「社会人」はそれ特有のステータスを持つ。

 「社会人」とは日本特有の、非常に奇妙な概念だ、と誰かが言っていたのを覚えている。私の経験則で言えば、「労働者」は必ずしも「社会人」ではない。自身の労働を対価にして収入を得る、このカテゴライズは「社会人」にも当てはまるものであるが、なおかつ、それだけに留まらない意味を持つ。端的な例を示せば、一般的にフリーターは社会人ではないと認識される。仮にそれが社会人と認識されたとしても、「社会人界」において下位に属するものだと考えられる。

 社会人とは社会と人の間の利益の循環から発祥した言葉なのではないか(社会から人へ、そして人から社会へと還元されるもの)。しかし、この意味での解釈は建前である。本音は「社会的ステータス」に重きが置かれている。実際に、日本においてほとんどの人々は人と関わりながら生きている。極論では、例え働いていない人でも消費行動を行うことで社会への還元は少なからず行われている(それが是という意味ではない)。死人であっても社会的行動においては、例えば墓が存在する限り主体であるのだ。

 「労働」は義務ではあるが、その形式は自由である。しかし、一般的にはその形式こそが重要視される。形式に上手く組み込まれた人達こそが、発言力、説得力を持つ。ならば、人々はこぞって「形式」のために邁進するのが合理的ではないか。一方で、私のような捻くれ者はこうした価値観に相いれることが容易でない。全くもって生きにくい世の中である、と感じる。しかし、こんな一介の学生の発言はただの戯言だとして済まされる。ならば、私は自己主張をするために、反対意見に則った行動を起こし、社会的ステータスを得なければならない、という自己矛盾的なプロセスを経ることになる。なんとも、なんとも生きにくい世の中である。